誰もが彼を知っているのに

誰も彼の名前を言えない。








彼はいつもそこに座っていた。

ここはB地区にある寂れた公民館だ。

人々が好きなように集まり、好きなように散っていく。

役人はめったに立ち寄らない。

管理人も雇われなくなり、事務室は談話室と化していた。

窓口に置いてあるノートに各部屋の予約だけが

ぎっしりと書き込まれている。

このノートが、ほとんど唯一の秩序だった。


そして月に一度の地区会に、彼は必ず現れた。

老若男女、その地区に住んでいる者なら

誰でも大部屋に集っていい日だ。

この辺りの人は皆、工場の下働きをしている。

日々を機械に囲まれ過ごすので、人恋しくて仕方ない。

かく言う私もその一人だ。

だから何かと口実をつけて集まってきては

互いの消息を確かめ、他愛のない話をして過ごした。

しかし私の記憶する限り、彼は誰とも話そうとしたことはなかった。

ただ静かに部屋の隅に座り、東洋の長い煙草(キセルというらしい)を

ふかしていた。

灯りが十分に届かない暗がりで

煙草の火だけが、妙に赤く燃えて見えた。



彼の名を、友人に尋ねてみたこともある。

しかし、それを知る者は誰もいなかった。


「いつも、来てるよな?」

「…ああ多分。確か。でも、興味ないし」


彼らの応えはいつもそっけなかった。

そして集会が終わる頃、私が声をかけてみようとすると、

その男はいつも立ち去った後なのだった。

 

ある日、彼に話しかけようという決意をはっきり持って

彼に近付いた。

すると、拍子抜けするほどあっさり歩いていくことができた。

先月も先々月もその前も、なんとなく彼に近寄ろうとしたが、できなかったのだ。

なぜかいつでも、タイミング悪く私の前を通る集団に邪魔された。

そして人の群れが去った後、男の座っていた椅子だけが残るのだった。


 

「俺に何か用か?」

特徴があるわけではないのに、わんと響く声だった。

私はまだ何もしゃべっていなかった。

ただ彼から一歩離れたところに、初めて立っただけで。


「用、というわけでは。いつも来ていますよね?どこの方なんですか」

「それは。B地区だろう」


男は笑った。確かに、これは地区会なのだ。

疑問はとっさに口をついて出たのだが、馬鹿なことを聞いた。

それにしても、こんなに近くにいるのに、男の顔がおぼろげに見える。



「あんたは、本当はここの住人じゃないな」


男が言った。

息が詰まった。

なぜ知っているのかと反問するよりも、質問に答えることを

優先すべきだと感じた。何より、

彼が何を知っていてもおかしくないような気がした。

私は彼のことを何一つ知らないのだから。



「…ええ。実は、そうなんです。境界線際の、C地区に住所はあります」


成程。

と男はキセルをくわえた。

ゆらゆらと紫煙が立ちのぼる。一体いつの品なのだろう。かなりの骨董のはずだ。

男は煙管の胴で軽く手のひらを打った。

たん、と小さな音がした。

途端に、まわりの喧騒が遠のいた。

 

 

「ここだけの話だ」


俺はここに仕事に来ている。それが何かは言えないが。

男は口を動かしていないはずだった。

それとも暗がりで、唇の動きを読めなかっただけかもしれない。

いいや、そもそも男はうつむき加減で、私の位置からは顔が見えない。


「B地区の人間に、顔を覚えさせているんだ。

彼らが後々迷ったりしないために


男はもう一度、煙管の胴で手を打った。

私は…



 


 

「あんたも、気をつけて帰りなよ」


私は、男に肩を叩かれた。


「え、ああ。はい」


張り詰めた糸が急に切れたような気が、した。

何を話していたかを思い出すために、もう一度男の顔を見直そうとしたが、

横顔すらもとらえ損ねた。

彼は一度も振り返らず、人ごみに消えた。


「おい」


振り向くと、見慣れた友人の顔があった。


「どうした、ぼーっとして。なあ向こうで賭け札をするんだ。来いよ」

「いいね」


久々の懐かしいゲームに心が躍った。

私はすぐさま友人の後を追った。

しかしはやる心に、小骨のような疑問が生まれ、私の口を突いて出た。



「あのさ、隅に座ってた男の顔、覚えてるか?」

「お前が気にしてた奴か」

「うん」

「そうだなあ」


見れば、わかるかもしれないな。

 (顔を、覚えさせて…)

 

一瞬何かが頭をよぎったが、すぐにもやに隠れて見えなくなった。


「ふうん。そうか」


私は鼻を鳴らして、それ以上何も考えなかった。

あとは賭け札にまつわる懐かしい思い出や、

札の鮮やかな色。冴えた音。

すぐ目の前にあることに、意識は急速に傾いていった。

今日はこれから飲み明かすのだろう。

そして明後日になれば、またオイル臭い工場へと出向いていく。

 

 

 

 

彼はどこにでもいるのかもしれなかった。

意識に塗りつぶされた現実の裏に。


 

 


 

2007/2/18

back